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救いについて

経験はいつでも非連続的だが、それがどうしてなのかは意味付けの問題だから唯一の答えというものはない。

 

仏陀は、知覚があっちゃこっちゃ行ってるだけで、現象は必ず縁起なので、知覚鍛えて現象に合わせなさいってことを言ったのかなって思う。

ここでは連続性が救いである。

 

連続性に真正面から救いを求めるというのはあまり人気なやり方ではないのかなと思う。

「全部ぶん投げてしまえればどれほど楽か」という考えを救いと呼ぶならば、それは非連続性の方に属すると考えるのが素直だ。

 

ただまあ、責任の起源を考えたデリダは、死を与える瞬間にスーパーびっくり箱が作動しているのにこだわった。

神からの内的視線が、犠牲の奉献に報酬を期待してはいけないという縛りになる。不可能な負い目になる。

その期待の放棄が成就する瞬間にこそ、報酬が得られる。

(「隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」(マタイ6:4))。

 

(神には計算可能であるものの)被造物には計算不可能なエコノミーが成立する瞬間が、ここでいう「非連続」をかすめる瞬間だ。神には計算可能ということで、うーん、かすめる程度で済んでいる。

 

 

そんでどっちが救いかはともかく、人生の中で非連続性を信じられる機会ってのは、誕生日の数ほどは多くないかもなと思う。

何かを卒業するときとか、別の町に引っ越すときってのはそういう貴重な機会である。

両方一気にやるならスーパー非連続って感じだ。

いいじゃないか救われた気になったって。

好き勝手 切断して、とじこもります。