思考のまとまり

思考がまとまらないと思っているが、思考の流れ自体は輻輳(関連する話題へとたまに分岐して単線的でない)しながらも止まってはいないようなんだ。ただ、こうやって書き始めると何が結論だったかわからなくなってくるんだ。もしかしたら文章を書くことは半熟卵ぐらいの硬さの結論へ向かっていくことで、方向性だけ決めて書き始めることはできるけど、方向そのものがないと書き始められないんだ。結論が手元に無いということは主張が手元にないということなんだ。単純労働がしたい…。ある命題を主張することを大事だと考え、その命題に向かって説得的に論を組み立てていく作業ができない。そのように主張するに値する命題が存在するということがずっと信じられていない。会社を辞める前から、「するに値する仕事など存在しない」ということを言っていた気がする。ともかく信じられていない。だから営業ができない。すべてのことは営業から始まるのに。だから営業ではなく営業に使われるワーカーになりたい。ワーカーにも専門職と代替可能な単純労働とがある。専門職の人は(仕事に向かう姿勢などが)僕は苦手だ。単純労働はすごくいい。学生の頃、物流倉庫や、パン工場で働いた。あれは本当に良かった。作業を提供するとお金が貰えた。正社員になるとただ作業を提供するだけでなく、生産物の音頭取りをする指揮者になる必要があった。120円のあんパンより価値があるとは思えないものを120万円で売るので、120万円に相応するサービス水準を提供しなくてはならなかった。あんぱん食べたい。イオンモールであんパン売ってるかな。こうして日本食が恋しい駐在員みたいになっていっている。近所の美味しい食堂にもしばらく行っていない。美味しいが何故か行っていない。コンビニで(日本に住んでいるとして)あんパンを買うのはちょっとした贅沢というか、正直お金が余計にかかる行為だ。自分はまた給料取りになって、夜にコンビニであんパンを買ったりするのだろうか。北白川仕伏町に住んでいた頃みたいに、焼きうどんの夕飯を食べたあとコンビニに行って、自分が焼き鳥が食べたいのかピザパンが食べたいのかで迷ったりするのだろうか。一人暮らしはいいものだったな。あんなに我慢して会社に行っていたのに、ぼくにとって最高の自分へのご褒美である一人暮らしを、結局自分にあげなかったのだ。自分は次働いたら、もう仕事において自己実現や社会貢献ができるなどという期待はすっぱり捨てて、言い換えれば営業的な人生が送れるという自分の未だ開花せぬ秘めたる能力への期待はきっぱり捨てて、ワーカーとして自分の最高の将来の夢だった一人暮らしができることに感謝しながら老いていくことができるだろうか。よく分からないが、そういう1つの能力の開発を放棄したところで、まだまだ好奇心を刺激するものごとや、興味を引くものごとは(その主な部分が、内発的な面白さというよりは興味を引くためのものとして作られているがゆえに興味を引くとしても)いっぱいあると思うし、その中でいま縁があることがITならば、そこにしばらく錨を下ろすのがいいと思う。そういうふうに明日も伝えようかしら。私はここに戻ってくるつもりじゃなかった。だって、ここに戻ってくるなら、一度離れるのはおかしな話だもの。折しもリーマン・ショックのせいだったか、グッドウィル?だかの派遣会社が悪く言われていた頃だったからかわからないが、ともかく「プログラマー」は搾取されているんだというニュースが連日流れていた。母はぼくにそういう搾取されるような職業について欲しくないと言う。そもそも我が家ではコンピュータは目が悪くなるので控えるのが良い子のふるまいだった。だからぼくは離散コサイン変換とかについて夢中で調べるのをなんとなくやめた。アセンブリ言語よりコソコソしなくて良い時間の使い方もあったのだと思う、それが何かはもはやわからないが。今更ここに戻ってきて、HTML5から始めるのはどうか、機会損失が膨らみすぎて、それにその機会損失に向き合うのは、すべてを親のせいにするようでかっこ悪いという気持ちもあったのだろう、そうではない、わたしの興味というのは他の人の顔色一つで失せるような弱いものなのだ、意志や夢なんて最初からなかったのだ。だから、「金儲けの手段」と割り切れるくらいまで意志や夢が減退するまで待つ必要があった。これで一生懸命頑張らなくていい。強めの適性はありがたいが、普通強めの適性を持つ人間は強めの夢を膨らませてしまう。夢を持つにはビハインドが大きすぎるので、夢がなくなるまで待つ。強めの適性だけが残る。意志がないので、他人(営業)の言うとおりに能率的に作業(ワーク)ができる。これで自分の適性にあったことでお金が儲かり、一人暮らしができる。幸せ。そういうシナリオを描いている。さっきから思ってたけど話をぶった切っちゃうので書かずにいたけど、この話の飛び方は統合失調症のコピペを思い出させる。「支離滅裂な言動」みたいなキャプションで雑コラがバズったあの画像のことで、ある人が「これは行間を補足すれば連想として不自然ではない」という注釈をツイッターで入れていてなるほどと思った。ぼくも今思考をなるべく飛びのないように言語化しようとしているけど、これができるのは夜間だからで(ちなみにスマホで書いている、PCではもっと画面を見ること自体がしんどい気持ちになってここまではできないと思う)、基本的には自分の思考の振り返り・俯瞰はもっと断片的なものになるはずで、そしたら例の画像と何ら変わらないものしか残らないだろう。ああ、振り返って自分の思考が繋がっていない、というのは、結構辛いものなのだなあ。いま人生で初めてそんな状況を体験している。これもぴったりの言葉ではないかもしれない。つい一年前のぼくは、ぴったりの言葉を見つけてくることで人から褒められていたはずだ。いまは、何に対してぴったりの言葉を見つけようとしているのか、すらよくわからないまま、言葉へと凝固しない情念を空振りもしつつ吐き出そうとしている。ウンコしているみたいだ。ほんとうにらくなのは、情念にこだわらないことなのかもしれない。仏教的正解はもう分からない。もう一回瞑想行ったほうがいいのだろうか。何を質問していいのかわからないので一度も質問に行かなかったというコースがあってから、なんだか自分が正しいやり方をしているのか、よくわからなくなった。明らかに集中は落ちているのに、キモチイイを追い求めてはいけないというルールもあるので、集中が落ちていることを嫌悪するわけにもいかない。結局集中が落ちていることに対し多少の危機感をいだきつつも、なんとなく10日間をこなして出所してくる。幸せに満ちてる感じでもないので、コース後の奉仕やろうという気も湧いてこない。なんか賢しらが消えないまま、子供コースはどうなんやとか、日本性は上座部にあるわけないやろとか、ベラベラ喋ってしまう。

日本帰ったらまず瞑想かもしれない。なんにせよ今は寝る時間か。早くお菓子じゃなくて、起きてうどんと肉野菜が食べたい。