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にんじんしりしり

それはそうとして夕方まで寝ていた。

昨晩は弱った(弱らせた:意図的にほとんど肉を食ってないので)胃にラーメンをぶちこんだら(お腹ではなく心が減っていたので)、翌17時に至ってまったく腹が減らない。

茨木で人と飲む:とりのねぐら 阪急茨木店

一人で来ている人もいる。内装が普通の居酒屋だが店員が積極的に絡んでくるから、ハマる人はハマるだろう。バー的需要と大衆飲み屋的需要を両方取り込むことに成功している。

東京就職に向けてのお説教を賜る。ありがたや。

こういうのは薄い一般論だからこそありがたい。それすら踏み外すとマジで危ないということが明らかだからである。そしてそれすら踏み外しかねないところに自分はいる。

 

超酔った。ほんとは酒飲みたくないのが最近の正直な気持ち。人より飲むけど。

 

帰ってきて特殊清掃のビデオ見て酔い覚ます:ザ・ノンフィクション 孤独の後始末 請け負います

 

ヒンディー語やろうかしら。それとも映画の一本でも見るか。

明日こそ住民税。

もうねる

昼夜逆転

 

ヒンディー語 いつものペース+単語いつもより少ない

福仙楼行った 空虚だ

「ぼくはペット」3巻まで無料だったから読んでた タイトルはセンセーショナルだが要は家にいる居候vs外面のいい相手の、欲張りさんのラブコメ

<追記 4巻で急に面白くなくなった 不安定な状況が面白かったのに安定してきて日常礼賛に堕した>

沖縄のもずくの佃煮がおいしい 酒は飲まなきゃよかった 

昼ずっと寝てた もう確定申告はいいや 住民税免除だけ出そ

かなり前に半分くらい読んでた日本会議の研究を少し読み進める

 

自堕落ここに極まー

ほんとに一日中寝てた。

ヒンディー語はいつものペースで。

君に届け」実写がテンポ悪すぎて30分でギブ。

 

いいのか。観光とかに興味がある訳じゃないが、なんか太陽を浴びなくていいのか。

 

数少ない友達に筋トレ(!?)に誘われる。

西成の建設バイトに行きたいらしいので連れていくこともするかも。

 とりあえず基礎知識として卒論でも引いた渡辺(2006)を紹介しておいた。

改めて自分でも読み直してみるとこれ面白いなあ

 

なんか映画見るか。死ぬほど借りたし。

 

明日こそベトナムアレと税金アレしよ。

こあの助

ヒンディー語いつものちょろっと。

 

四年来の友人とこあ。

京大が居心地良すぎて出れなくなった系かー。

ぼくはやりたいことがないので、やりたいことがあってこだわってる人の選択に文句はつけられないが、夢を叶えるための第一歩は人に説明する努力をすることなんじゃないだろうか。

べつにいいけど。夢の価値は叶うかどうかで決まるわけじゃないし。

 

教務からのメールでベトナムのアレの存在を思い出す。

手近な作業が出来て良かった。早速取り組む。

ほんと暇。

資格とかはあんま取る気ないこの春休みは。

 

ストレス解消に運転してきた。

松ヶ崎ツタヤで恋愛映画をごっそり借りる。

人間性が多少は戻りますように。

 

豆腐とか食べるのとても大事。

きょうは3食食べた

幼女戦記のweb版で読み残していた番外編を読み切る。

 

ヒンディー語単語100個くらい書き出す。新規単語はこのくらいの量が無理のない単位かなあ。

 

あとなんだ、まあ、何かしたっけ。

明日は確定申告?しにいこ。源泉徴収票ないからダメ元。1000円も取られてないし国庫に寄付でも仕方ない。戻るにせよ戻らないにせよ、とにかく雑務を一つかたづけたい。

問題は住民税。年収38万以下だから払わなくていいはずなんだけど、所得全部分の源泉徴収票がない。ある分の給与明細並べて概算してもらえるならば、なんにせよ書き方がわからん。被扶養だけど住所違うし。

 

 

最近軌道に乗ってきた食べ物のポリシーについてと、歴史と地図について、オール讀物という普段買わない雑誌を買って読んでみてることとか、そのうち。

2/11

だらだらした。

 

卒論出した夜にアマゾンでごっそり注文したいろいろ。

ルポ トランプ王国――もう一つのアメリカを行く (岩波新書)を半分まで読む。データそのものは居酒屋での生活史/誌の聞き取りだから、自分が卒論でやっていたことととても似た方向性を持っている。こういう、置き去りにされあるいは党派性の間でappropriateされてきた人々の研究がもっと増えればいいと思う。

声を拾い上げられるなんて大層なことは思わない。「『調査者は自分の出会った『現実』から何かを書くのではなく、書きたい『現実』と出会』う、というのは事実だろう[古賀、一九九七、八一頁]。結果的に、予め書きたかった物語どおりに書いてしまうかどうかはともかくとして。」(場所をあけろ!―寄せ場・ホームレスの社会学 第四章)

ただ断絶しあるいは非対称が固定した視線をものともせず、交通communicationsを作り出すことには内包的な価値がある。

 

新聞記者だからか、ロジックが細部まで通ってないのはこないだまで論文書いてた身には気になるが(例えば、1994年と2016年の数値を比較するときなぜ比較対象が1994年なのか言ってくれなきゃわかんないよ!とか)。

 

 

もうちょっとヒンディー語やろ。

救いについて

経験はいつでも非連続的だが、それがどうしてなのかは意味付けの問題だから唯一の答えというものはない。

 

仏陀は、知覚があっちゃこっちゃ行ってるだけで、現象は必ず縁起なので、知覚鍛えて現象に合わせなさいってことを言ったのかなって思う。

ここでは連続性が救いである。

 

連続性に真正面から救いを求めるというのはあまり人気なやり方ではないのかなと思う。

「全部ぶん投げてしまえればどれほど楽か」という考えを救いと呼ぶならば、それは非連続性の方に属すると考えるのが素直だ。

 

ただまあ、責任の起源を考えたデリダは、死を与える瞬間にスーパーびっくり箱が作動しているのにこだわった。

神からの内的視線が、犠牲の奉献に報酬を期待してはいけないという縛りになる。不可能な負い目になる。

その期待の放棄が成就する瞬間にこそ、報酬が得られる。

(「隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」(マタイ6:4))。

 

(神には計算可能であるものの)被造物には計算不可能なエコノミーが成立する瞬間が、ここでいう「非連続」をかすめる瞬間だ。神には計算可能ということで、うーん、かすめる程度で済んでいる。

 

 

そんでどっちが救いかはともかく、人生の中で非連続性を信じられる機会ってのは、誕生日の数ほどは多くないかもなと思う。

何かを卒業するときとか、別の町に引っ越すときってのはそういう貴重な機会である。

両方一気にやるならスーパー非連続って感じだ。

いいじゃないか救われた気になったって。

好き勝手 切断して、とじこもります。