救いについて
経験はいつでも非連続的だが、それがどうしてなのかは意味付けの問題だから唯一の答えというものはない。
仏陀は、知覚があっちゃこっちゃ行ってるだけで、現象は必ず縁起なので、知覚鍛えて現象に合わせなさいってことを言ったのかなって思う。
ここでは連続性が救いである。
連続性に真正面から救いを求めるというのはあまり人気なやり方ではないのかなと思う。
「全部ぶん投げてしまえればどれほど楽か」という考えを救いと呼ぶならば、それは非連続性の方に属すると考えるのが素直だ。
ただまあ、責任の起源を考えたデリダは、死を与える瞬間にスーパーびっくり箱が作動しているのにこだわった。
神からの内的視線が、犠牲の奉献に報酬を期待してはいけないという縛りになる。不可能な負い目になる。
その期待の放棄が成就する瞬間にこそ、報酬が得られる。
(「隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」(マタイ6:4))。
(神には計算可能であるものの)被造物には計算不可能なエコノミーが成立する瞬間が、ここでいう「非連続」をかすめる瞬間だ。神には計算可能ということで、うーん、かすめる程度で済んでいる。
そんでどっちが救いかはともかく、人生の中で非連続性を信じられる機会ってのは、誕生日の数ほどは多くないかもなと思う。
何かを卒業するときとか、別の町に引っ越すときってのはそういう貴重な機会である。
両方一気にやるならスーパー非連続って感じだ。
いいじゃないか救われた気になったって。
好き勝手 切断して、とじこもります。
つなぎが必要だったので
二十平米ほどの卒論執筆室は、公聴会を過ぎた途端に誰も来なくなった。
この部屋に寝袋を持ち込んでいたのはぼくだけではないが、ここで寝た回数はダントツで自分が多いだろう。
なにせ家は風呂の付いた倉庫という認識でいる。
あと家より人環棟のほうがコンビニが近いし。
就職したら職場では寝れないのかと思うと悲しい。
せいぜい卒業までのあいだ、高速無料Wi-Fi環境を使い潰すとしよう。
国民の血税で今日も暖かいし。
お世話になった人への義務が積み上がっているが、なかったことにする。
返却すべき物品(長く借りすぎた本)を、京都にいるうちにはどうにかうするぐらいで。
もういいんだ。自分で言いだしたことに対して比較的責任を持つタイプの人間だったが、それも過去のことだ。未来のことかも。
きっと人生であと何度か、情念が行動をブーストする時期が来るだろう。
次のやつまで生きといてやろう。