こあの助

ヒンディー語いつものちょろっと。

 

四年来の友人とこあ。

京大が居心地良すぎて出れなくなった系かー。

ぼくはやりたいことがないので、やりたいことがあってこだわってる人の選択に文句はつけられないが、夢を叶えるための第一歩は人に説明する努力をすることなんじゃないだろうか。

べつにいいけど。夢の価値は叶うかどうかで決まるわけじゃないし。

 

教務からのメールでベトナムのアレの存在を思い出す。

手近な作業が出来て良かった。早速取り組む。

ほんと暇。

資格とかはあんま取る気ないこの春休みは。

 

ストレス解消に運転してきた。

松ヶ崎ツタヤで恋愛映画をごっそり借りる。

人間性が多少は戻りますように。

 

豆腐とか食べるのとても大事。

きょうは3食食べた

幼女戦記のweb版で読み残していた番外編を読み切る。

 

ヒンディー語単語100個くらい書き出す。新規単語はこのくらいの量が無理のない単位かなあ。

 

あとなんだ、まあ、何かしたっけ。

明日は確定申告?しにいこ。源泉徴収票ないからダメ元。1000円も取られてないし国庫に寄付でも仕方ない。戻るにせよ戻らないにせよ、とにかく雑務を一つかたづけたい。

問題は住民税。年収38万以下だから払わなくていいはずなんだけど、所得全部分の源泉徴収票がない。ある分の給与明細並べて概算してもらえるならば、なんにせよ書き方がわからん。被扶養だけど住所違うし。

 

 

最近軌道に乗ってきた食べ物のポリシーについてと、歴史と地図について、オール讀物という普段買わない雑誌を買って読んでみてることとか、そのうち。

2/11

だらだらした。

 

卒論出した夜にアマゾンでごっそり注文したいろいろ。

ルポ トランプ王国――もう一つのアメリカを行く (岩波新書)を半分まで読む。データそのものは居酒屋での生活史/誌の聞き取りだから、自分が卒論でやっていたことととても似た方向性を持っている。こういう、置き去りにされあるいは党派性の間でappropriateされてきた人々の研究がもっと増えればいいと思う。

声を拾い上げられるなんて大層なことは思わない。「『調査者は自分の出会った『現実』から何かを書くのではなく、書きたい『現実』と出会』う、というのは事実だろう[古賀、一九九七、八一頁]。結果的に、予め書きたかった物語どおりに書いてしまうかどうかはともかくとして。」(場所をあけろ!―寄せ場・ホームレスの社会学 第四章)

ただ断絶しあるいは非対称が固定した視線をものともせず、交通communicationsを作り出すことには内包的な価値がある。

 

新聞記者だからか、ロジックが細部まで通ってないのはこないだまで論文書いてた身には気になるが(例えば、1994年と2016年の数値を比較するときなぜ比較対象が1994年なのか言ってくれなきゃわかんないよ!とか)。

 

 

もうちょっとヒンディー語やろ。

救いについて

経験はいつでも非連続的だが、それがどうしてなのかは意味付けの問題だから唯一の答えというものはない。

 

仏陀は、知覚があっちゃこっちゃ行ってるだけで、現象は必ず縁起なので、知覚鍛えて現象に合わせなさいってことを言ったのかなって思う。

ここでは連続性が救いである。

 

連続性に真正面から救いを求めるというのはあまり人気なやり方ではないのかなと思う。

「全部ぶん投げてしまえればどれほど楽か」という考えを救いと呼ぶならば、それは非連続性の方に属すると考えるのが素直だ。

 

ただまあ、責任の起源を考えたデリダは、死を与える瞬間にスーパーびっくり箱が作動しているのにこだわった。

神からの内的視線が、犠牲の奉献に報酬を期待してはいけないという縛りになる。不可能な負い目になる。

その期待の放棄が成就する瞬間にこそ、報酬が得られる。

(「隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」(マタイ6:4))。

 

(神には計算可能であるものの)被造物には計算不可能なエコノミーが成立する瞬間が、ここでいう「非連続」をかすめる瞬間だ。神には計算可能ということで、うーん、かすめる程度で済んでいる。

 

 

そんでどっちが救いかはともかく、人生の中で非連続性を信じられる機会ってのは、誕生日の数ほどは多くないかもなと思う。

何かを卒業するときとか、別の町に引っ越すときってのはそういう貴重な機会である。

両方一気にやるならスーパー非連続って感じだ。

いいじゃないか救われた気になったって。

好き勝手 切断して、とじこもります。

つなぎが必要だったので

二十平米ほどの卒論執筆室は、公聴会を過ぎた途端に誰も来なくなった。

この部屋に寝袋を持ち込んでいたのはぼくだけではないが、ここで寝た回数はダントツで自分が多いだろう。

なにせ家は風呂の付いた倉庫という認識でいる。

あと家より人環棟のほうがコンビニが近いし。

 

就職したら職場では寝れないのかと思うと悲しい。

せいぜい卒業までのあいだ、高速無料Wi-Fi環境を使い潰すとしよう。

国民の血税で今日も暖かいし。

 

お世話になった人への義務が積み上がっているが、なかったことにする。

返却すべき物品(長く借りすぎた本)を、京都にいるうちにはどうにかうするぐらいで。

もういいんだ。自分で言いだしたことに対して比較的責任を持つタイプの人間だったが、それも過去のことだ。未来のことかも。

 

きっと人生であと何度か、情念が行動をブーストする時期が来るだろう。

次のやつまで生きといてやろう。