スピーキング試行錯誤

あの時ああ言えば良かった、という思考形式(もっと言えば、ああ言い返せばやり込められたのに、という形式)は、事実でないイメージに執着し、攻撃的な快感への依存を促進するもので、瞑想者として以前に普通の精神衛生からしてもあまり褒められたものではありませんが、語学習得という面からすれば表現を磨くプロセスはある程度これに似ているのかもしれないという着想を得ました。

 

そもそもお題スピーキングをやって、全然自分の言いたいことが言えない(あるいはそもそも当該の言語能力が低いために言いたいことがはっきりしない)時間の後、どういうフォローアップをしたら良いのかを考えていた。

よしスピーキングやるかー、というやる気の火種は有限で、一度火を消したものを再起動するにはエネルギーが余計にいるので、

もし効果的なフォローアップがないのならそもそも拘泥せずに次に行ったほうがいい。英語のときはそうしていたし、ベトナム語でも近いうちにそうしたい。

 

ところが現在はライティングの経験がほとんどないために、文の産生が語彙数に比して相当小さいという問題があり、ライティングか少なくとも多読をしないと直訳以上のことはできない(脈絡をつけるボキャブラリーも無ければコロケーションも小さい)という状況。

この時、スピーキング後に何したらいいという候補の一つが、「ゆっくり表現を検討する」だった。

 

これ、どう言えばよかったかウジウジ考えるのと一緒の思考法やん?

うーん、それにしたって判断基準が育ってなければ磨きに限界があるかもしれん。