語学の切り口

初めてTOEFLを受けたときのことを決して鮮明に覚えているわけではないが、途中でやる気をなくすぐらい難しかった。42/120とか、そのくらいのスコアだった気がする。

あのあと、たしか64だった回と78だった回の間に青谷スピーキング課題(15/45)に出会って、劇的な伸びを感じたのだったような。

あれは強烈な成功体験だった。今でも自分の「努力の方向性」は青谷スピーキング課題そのものだ。モチベーションに波はあれど、モチベーションが高いときにどこにエネルギーを注ぎ込めばいいのかという観念は変わっていない。

 

もう一つの大きな成功体験はankiで、最初の2ヶ月ぐらいでニューエクスプレスがするする頭に入った(理解し、かつ記憶していた)し、その後も凄まじい勢いで語彙例文(それも反射的に口をついて出てくる)が増えていった。

ニューエクの内容を隅から隅まで頭に入れるなんて可能なんだ!それもたかだか2ヶ月足らずで。

この驚きは本当に大きかった。

 

これまでずーっとankiを学習の中心に据えてきた。学習歴気づけばちょうど一年。この一年は、ankiと共に歩み、ankiと暮らし、ankiを頑張るためのモチベーションを探し、ankiのカードが増えたことこそが成果の指標であるという、そんな一年だった。一年かあ……。そんなにきたんだなあ。

 

このスタイルがいま、変化のときに来たみたいだ。

 

語学の第一層は広い意味での語彙、第二層は運用、という話を以前から持論として持っていた。

それを考えたときには、語彙500語からでも青谷スピーキング(15/45)は始められる、ゆえに学習の第二層は第一層と常に並行できるのだ、という主張がついていた。

現実はどうだ、例文の暗記でも効果があるという言い訳で、語彙5000語、学習期間1年まで、まったく15/45をやらずにここまで来てしまったのである(ほんの数回はやったが…)。

 

結果(つまり現状)は、正直いって微妙だ。

・まず、伸び悩んでいる。少なくとも伸びてる感が減った。

・「慣れ」は増えていくので、初対面でベトナム人に間違われるような「場数力」は確かに増加している。

・ただ、喋れないし、聞けない。あまり優先度は高くないが書けもしない。たぶん、語彙と例文を増やす方法では限界に来ている。

・まあ例文を増やす方法はまだそこそこ通用するかもしれない。それでも、新規の文法事項が教科書的にはもう多くない(口語的にはまだあるだろうが)。手持ちの文法事項の運用力も、例文の定着だけではそこまで高くならない。もしかしたらもっとanki内の例文比率を増やせばよいのかもしれないが、現状上記の理由によりどんどん単語だけが増えていく。

 

上記は語学の言葉を使った自己分析だが、生活面では以下のような支障がある。

・いつまで経っても、発話に自信が持てない。状況に迫られて翻訳的に説明することはできるが、「自分はベトナム語で説明ができます」と言える能力に向けて進歩している感じがしない。

・情報伝達を離れたコミュニケーションの部分で、以下の理由でまったく自信がなく、結果的に会話開始そのものを諦めてしまう。

― 適切なスモールトークが何なのか分からない

― 感情表現系の語彙が未熟である、

― 発話しても内容の解像度が足りないので、自分で面白くない。

― 他の人の言うことが聞き取れないので、一対一と集団のいずれでも流れに乗れない。

― どの「語」がわからないから話がわからないのか、がわからないので、会話への参加が語学の向上にも寄与しない。

 

・統語の正しさや自然さに対するセンスか向上している感じがせず、自己評価の軸がない。

 

明らかにもう、話す・聴くを直接訓練することから逃げられない。

それで、先週、1日30個ずつ増やしていた語彙の新規流入を止めた。

まだ復習(anki化)されていない教科書のページが相当あるので、これは結構勇気のいる決断だったが、正しいと思っている。

 

自分の拠り所は、まずひとつは15/45。

そして、優先度で第二になるのは、ここに来てから、日本語学科の学生たちや日本語教師からの評判と自身でのトライアルで堅いと思えた、シャドーイング(レベルによってはコピーイング)。

優先度の第三は多読…実際に多くはなくても、主に「自然さ」に対するセンスを鍛えるための長文の非精読。

 

これら向けて舵を切り、種から芽を出す。

いいぞ、できるかもしれない。語学。