公的サービスの快感

お墨付きというのは嬉しいものである。

パスポートスタンプラリーみたいな心理で海外旅行するのはさすがに大学生の頃に一息ついたが、未だにレターパックを出せば追跡画面を頻繁にチェックしてしまうし、この間も外務省のハンコをもらいに行くのはワクワクした。公的サービスの利用と記録、そして証明というのは、なんだかとっても中毒性がある。

 

ベトナムではこの類の遊び心が、まったくくすぐられない。

 

悪いことではないのかもしれない。日本の公的サービスを利用する「快感」というのは、条件を満たせば一律に提供されるという前提に依っているところが大きいと思う。

ベトナムでは公的サービスというのは目の前の人間との交渉次第である。

 

それはそうと、受け取らなければいけない郵便があるのだが、、、

取りに行くにも郵便局名から住所がや営業時間が特定できない。調べてもわからない。

わかるのは電話番号ひとつのみ。人と話さないと段取りが確定しない。

 

こういう環境、正直得意とは言えない。条件が満たされれば属人性は一切なくサービスが提供される、そういう状況が与えてくれる快感に依存しすぎている。

人間、どこかから快感を調達してなんとか生活をやっているのである。

意外なものが与えてくれる快感に、なくなってから気づいたりする。

 

日々適量の脳内麻薬を流さないといけないのだが、生活スタイルが変化すると、これまでことさら快感目的でない行動によって流れていた意図せぬ脳内麻薬分が減るので、どうにかして補填しないといけないのだ。

だからとりあえず海外で生活が送れているというのは、物質的に充足されていても脳内麻薬が足りてない可能性がある。

 

ではどうやって脳内麻薬を調達可能な生活スタイルを構築すればいいかというと、自国での習慣も実は手グセに過ぎず、意図的にやっているわけではないので意図的に探すのは難しいのである。

有効と思われる方法の一つは、子供の頃そうであったように、未知の行動様式に対して情報をシャットアウトせず、一回でもいろいろと試してみて、その中から麻薬が出るやり方を発見するというものなんだけど、

すでに好き嫌いができてしまっている成人にはなかなか難しいところがあるのは確か。