チベット期

 

真夏、六月のドンタクタン草原は孔雀が尾羽を広げたかのように、麗しく華やいでいる。はるか彼方、東の方には、高い山並みが幾重にも重なって威容を誇っている。その真ん中にひときわ高くそびえたつ山は、頂に荘厳な白い雪を冠し、中腹に生い茂った緑の木々は首にかけたトルコ石の瓔珞のよう。ふもとからは、草原がエメラルド色の裳裾のように広がり、山と草原がなだらかにつながっている。南北や西の方角には高い山がないため、果てしなく広がっているようにみえる。はるか彼方を遠望すれば、空と大地が融けあっているかのようだ。草原を南北に分けるように、長い川がゆったりと流れ、まばゆい陽光のもとできらめいている。河の南側には大きな岩が一つある。その形はまるで一頭の猛々しい野生のヤクが角を天にふりあげ、尻尾を立てて、いまにも走り出しそうなおもむきである。河の北側にも大きな岩が一つあり、それはまるで雌虎が四つ足の爪を大地にくいいらせ、牙を天にむき出して、敵を呑み込まんとしているかのようだ。

―― ドンタクタン 序(p. 055)

チベット現代文学の曙 ここにも激しく躍動する生きた心臓がある

チベット現代文学の曙 ここにも激しく躍動する生きた心臓がある

 

 

チベットそのものの効用かどうかわからないが、現代チベット文学たちはぼくに、文学の読み方を思い出させてくれる。

一語一文に興味を持ち、繋がりに興味を持ち、情と景に興味を持って読むということ。

 

あるとき、そう、小学生のときぐらいまではそういう読み方をしていた気がするな、というところに引っ張り戻してくれるんである。

 

「筆者の意図」なんてものは正解のない世界に共通認識の土台を得るためのインテリの読み方であって、向いているのは本ではなくお友達の方なんである。そういう世界では「要約」「要点」「要するに」が一番大切なことだ。

チベット文学は、サクッと読み飛ばしたところで何も得られない。言葉選びも人間像も政治的背景も異なるので、常識の脚立でショートカットせずに、一文一文さわさわしながらでないと、読んだあとに何も残らない(いや、本当はこれ、チベット文学に限らないはずなのだ!)。

だいたい現代チベット文学はキャノンに属しているものではない。知っていることで自分の価値が上がるような社会ツールではない。岩波文庫何冊読んだワールドの読み方、高い視点で思想史の一部として扱う「要は」の読み方は無効化されている(物量が無効化されているわけではない。現代チベット文学の個々の作品が孤島というわけではないので)。

 

そんなわけで、落として落として、人生をやるスピードを自分が文字を読んで理解できるスピードまで落として、クールダウンして、焦らず焦らず読むようになるのである。

 

むしろ知るということもそういうことだったはずである。本が提供する情報は本に書いてあるまさにその情報だけである。その本を知っているということは、その本に書いてあることを知っているということのはずだった。もちろんそれは網羅的であることは少ないし、思い込みであることも多いが、少なくとも本に愛着、執着を抱くことの原初的な形態はそういうもので、だからドンタクタン草原が自分の中に位置を占めることができるはずだった。

そう、自分の中にある位置を占める。それは特別なことだ。